チェンジ・ザ・ワールド

○脚本「チェンジ・ザ・ワールド」のネタバレあり

 筆者は中高と演劇部に所属していました。基本的に毎年大会があってそこで自分たちの演劇を発表します。地方大会でも二日間に分けて行われ、計10校くらい出ていたと思うので、県大会や全国大会も見学に行っていたことを考えれば、6年間で相当な数の学生演劇を見てきたことになります。
 正直、ほとんど覚えていません。心の底から感動した何作かのうち、いくつかの場面を覚えているだけです。
 その中に、Eric ClaptonのChange the worldを聴くと思い出してしまう作品があります。石橋哲也さんの「チェンジ・ザ・ワールド」という有名な脚本があるのですが、ある中学の演劇部が地区大会でこの作品を発表していました。
 本当に有名な脚本なので、数えきれないほど上演されてきていると思うし、私自身も中学生時代に二、三回鑑賞しました。
 私が覚えているのはそのうちの一回です。初めて「チェンジ・ザ・ワールド」を見た回。
 ざっと言うと、不良の主人公が、癌を患う同級生と関わって変わるというお話です。
 余命わずかという中、入院生活を送る彼がいつも聞いているのがEric ClaptonChange the worldなんですね。
 彼は柳健一という名前で、最初は先生に頼まれて嫌々やって来た不良の北沢に、そのうち「ヤナ」って呼ばれるようになるんです。
 私もここでは彼をヤナと呼びたいと思います。ヤナはすごく明るくて朗らかなんです。北沢正平が来るとパッと顔を綻ばせて、「ショーちゃん!」と呼んで笑うんですね。
 私の記憶の限りでは、ヤナが1人きりでChange the worldを聴いているところへ、北沢が入ってくるシーンがあったと思います。CDラジカセで聞いてるから、音楽は部屋中に響き渡る。ヤナは最初、北沢が入ってきたことに気づかないんです。北沢は「ヤナ!漫画持ってきてやったぞ!」だかなんだか大声で言いながら入ってくるけど、気づかない。北沢はふとヤナを見て、なんとなく立ち止まってしまうんです。Eric Claptonを聴くヤナはうなだれて、真顔でぼーっと一点を見つめている。
 北沢の気配に気づいたのか、最初から気づいていたのか、ヤナは不意にラジカセに手を伸ばして音楽を止めます。
 二人の間に珍しく沈黙が流れる。
 そしてヤナは、北沢と目を合わせないままこう言うんです。

「僕、死ぬのが怖いんだ。」


 そう言ってしばらくすると、ヤナはまたいつも通りに笑い出すんですね。

 書いているうちに思い出しましたが、このシーンの前に、ヤナはすでに北沢にChange the worldを聞かせて紹介していたような気がします。「僕この曲好きなんだ。」とか何とか言いながら。
 Eric ClaptonのChange the worldは、ロマンチックな恋愛の歌として聴かれることも多いと思います。私もそういう風に聴くことはあるのですが、初めてこの曲を聴いたときの記憶が身体に染み付いているのか、どこか悲しい気持ちになってしまいます。
 歌詞を見てみると、たくさんの仮定が出てきます。

If I could reach the stars
Pull one down for you
Shine it on my heart
So you could see the truth

 "could"を使って、「もし星に手が届いたら」とか、「もし僕が王様になれたら」とか、色々思い描いているわけです。ここまでだとちょっと冷静に聞いてしまう自分がいるんですね。星に手が届くわけがないし、王様になれるわけがない、ロマンチックと形容されるのも頷けるなあと思ってしまいます。

 こういう「夢想」の後に必ずやってくるサビを見てみましょう。"could"じゃなくて"can"が使われるのはサビの頭だけ、一番曲が盛り上がるときに、Eric Claptonは波に押されるかのように"I can"と強く言い切ってしまったあと、"change the world"と優しく絞り出すように歌っています。
 あれだけ"could"と共に甘い夢想に浸っていたのに、ここで"can"と共に「僕は世界を変えられる」と断言する。そして"will"と共に「僕はきみの宇宙の太陽になる」という確信があとに続く。

And l can change the world
I will be the sunlight in your universe 
You would think my love was really something good
Baby if I could change the world 

 そしてその後また、サビの最後では"could"に戻っているのです。「もし僕が世界を変えられたなら」。

 この曲の美しいところは、まさにここにあると私は思うのです。"could"→"can"→"could"の波。
 まず、サビ以前にこれだけ"could"が溢れる中使われる"can"に私は絞り出すような勇気を感じます。
 星に手が届かない可能性、王様になれない可能性を分かっていて"could"と言えるわけです。それなのに、世界を変えられない可能性について「僕」はとことん盲目になっている。その盲目を可能にするなにかに、いわば流されて「僕」は"can"と言って「しまう」のかもしれない。そして祈るように"change the world"という本当の願いを絞り出す。
 世界を変えられるなんて本当は「僕」には断言できないはずだから、星に手が届くことを言う時と同じように"could"を使うのが妥当なはずなのに、なぜか"can"と言い切ってしまっている。
 なぜかは「僕」自身にも分からないのかもしれないですね。なぜなら、その後にまた"could"に戻るからです。なにかに突き動かされて一度は「世界を変えられる」と断言した「僕」のところに、世界を変えられないかもしれない可能性が戻ってくるんですね。
 世界を変えられないかもしれない、君の宇宙の太陽になれないかもしれない、という恐れ。この恐れと勇気との拮抗を感じられることが、この曲の美しさだと私は思います。
 仮定の話ばかりでなかなか断言するのは怖い「僕」が、ついに断言し、その後またすぐに怖くなる。それが繰り返されていく。
 "could"→"can"→"could"という波がそのことをよく表していると思います。



 ヤナも、この波を感じていたのでしょうか。
 私がChange the worldを聴いた時に決まって悲しくなってしまうのは、やっぱりそれが私の中でどこかヤナの曲だからなんだと思います。
 ヤナにもたくさんの願いがあったことでしょう。北沢が来るようになってから、心の中でなにかを断言することは増えたのかもしれません。死ぬまでにやりたいことを話し合って、2人で叶えていくんですよね。たしかバスケをしたり、女の子とチューしたり…。
 1人病室でこの曲を聴いていたヤナは、何を思っていたのでしょうか。「僕は世界を変えられる」が「もし僕が世界を変えられたなら」へと変わっていくサビを聴いてどう思ったのでしょう。
 そのことを考えると、悲しい気持ちにならずにはいられません。 

 と言いながらも、実は1番印象に残っているのはヤナの病室のシーンではありません。
 ヤナがいなくなった後、一度だけChange the worldが流れるシーンがあるのです。
 北沢がヤナに呼びかけるシーン。北沢が不良じゃなくなったとかそういうことはいいけど、北沢が「ヤナ!」って叫びながら静かに拳を突き上げるんですよね。この拳に合わせて流れるのはもちろんサビ、I can change the world...なわけです。

 ヤナが1人病室で聞いていたときのことは、北沢にも観客にも強く印象に残っているはずです。
 そしてそれを北沢が、いわば聞き直すのがこのシーンだと思います。
 だからこれはいつまでもヤナの曲です。でもそれを北沢と一緒に、私も聞き続けるっていうことなのかもしれないですね。1人で聞いていたヤナを思い出しながら…


 演劇を見て初めて感動したのがこの「チェンジ・ザ・ワールド」でした。
 本当に素晴らしい公演だった。当時の中学校の演劇部の方に感謝したいです。
 ここに書いたことにはいくつか間違いがあるかもしれません。それも決定的な。私の記憶から引っ張り出して書いたので、もしかしたらヤナが1人病室で聞いていたシーンなんてなかったかもしれないです。
 いつか脚本を読み直したいですね。その時に、私の記憶と脚本と、どこがどう違うのか照らし合わせてみるのも面白そうです。

太陽の残り火

地上にいるのに、水のなかにいるって思ったことはありませんか。

今の季節(9月)だと18時に日が沈むのですが、その前後の時間帯で、夕焼けが見えなくなってから真っ暗な夜が訪れるまでの間、青い夕暮れになることがあります。

見えるもの全てが薄い青色に染まって、普段明るく見える赤に近い色は黒に近く見えます。例えば木の葉も真っ黒に見えるので、薄青い光を背後にして、輪郭がくっきりと浮かび上がります。木の葉の色は見えなくなるけど、その代わりに形が見えてくるんですね。

そういう時にベランダに出て、自分の手を前に伸ばしてみると薄青く見えます。いつもの黄褐色が嘘のようで、本当はこんな薄い青色をしていたのかもしれないと思うほどです。1日のうちこの時間帯だけ、自分の手や世界が、本当の色や形を私に見せてくれる…。昼の世界は目眩しで、夜の世界は幻影ばかり。そのあいだの時間。このほんのわずかな時間だけ、世界はいつもの力強さを失って、眠る前に等身大の美しい目配せを送ってくれている…。そんな気がしてきます。

私の中からも、そんな世界に応えて、普段眠っている考えが浮かび上がってくることがあります。もしもあの時こうしていたら…さまざまな後悔。忘れたつもりでいて忘れられていないこと。

こういうとき、薄い青色に世界が溶け出したように私には見えていました。自分の腕も、木々も、全てが薄い青色に染まって、そのまま溶け出していきそうでした。理由は分からないけど、とにかく私もこのまま溶けて消えていきたい…。この青のなかに溶けていきたい。そう思うことがよくありました。

 

 

この時間帯にはいくつか名前がついていて、Pluto time、マジックアワー、プルキニェ現象などがあるようです。

Pluto timeはPluto冥王星の明るさに近くなる時間帯ということから付けられた名前のようです。太陽系のどの惑星よりも太陽から遠いところにある(準惑星の)冥王星の普段の明るさに近いということらしいですね。地球においては、それくらい太陽の光が弱まる時間帯だということなのでしょう。

プルキニェ現象は、チェコ生理学者J.プルキニェが見出した現象なんだそうです。プルキニェは人間を始めとした哺乳類の各器官について様々な発見をしているらしいのですが、光の条件とそれに対応する目の順応状態によって、色の明るさが違って見えることに注目して発見したのがプルキニェ現象らしいです。光が強いと、人間の目の網膜の細胞のうち錐状体という細胞の働きが活発になるとか。そうすると、長い波長の色によく反応するようになるので、長波長の赤色のものが明るく見えるようになると。昼間はそういう状態にあるわけですね。反対に光が弱いとき、錐状体ではなく桿状体の働きが活発になり、短い波長の色によく反応するようになるので、短波長の青色が明るく見えるようになるということらしいです。光が弱いときに青色が明るく見えることを、プルキニェ現象というらしいですね。色が変わって見える原因は光の強さの変化にあるだけではなく、人間の目の状態の変化にもあるということなのでしょうか。

 

 

最後に、江國香織の作品のどこかでこの時間帯のことが語られていた気がしたので、それを載せたいと思っていたのですが、どこだったか忘れてしまいました。代わりに、久しぶりに読み返してみて、夕方について書いてある素敵なところを見つけたので、そちらを載せておきます。(もしかしたら今の私が忘れていると思っている箇所も、この部分のことかもしれません。)

「心というのは不思議です。自分のものながら得体が知れなくて、ときどき怖くなるほどです。

 私の心は夕方にいちばん澄みます。それはたしかです。だから夕方の私がいちばん冷静で、大事なことはできるだけ夕方に決めるようにしています。

 私は冷静なものが好きです。冷静で、明晰で、しずかで、あかるくて、絶望しているものが好きです。」 

江國香織落下する夕方』角川文庫 p287 あとがきより。